2013/06/27

Cadre (枠組み)



今日はdjembe(ジェンベ)というアフリカ太鼓のセッションに行ってきた。
私が習っている先生達と、上級の人達(25年のキャリアとか!)での
インプロのコンサートの後、生徒達全員がインプロに参加。
20人ほどでの1時間ほどのノンストップセッション。
 素晴らしかった!
こんなに空っぽになったのは本当に久しぶり。
その後のビールがおいしかったこと(笑

ジェンベには楽譜はない。理論もない。
人から人へと伝えられてきた、丸裸なまんまの音楽。
でもちゃんと決まったリズムがあるし、
そのリズムにはある程度右手と左手の順番も決まっている。
漁師のリズム、農民のリズム、儀式のリズム、結婚式のリズム、、、。
多少のバリエーションはあるものの、決まったリズムはどこでも同じ。
演奏する時は、Djouns(ジュン)という大きな太鼓達がベースのリズムを刻み、
それに合わせてジェンベの奏者は色づけをしていく。
そこに、ダンサーや歌が加わってものすごい厚みのある空間へと変化して行く。

その中で、ソロ奏者は自分の思うままに自由にリズムを刻み、
周りはそれを支えつつ、色づけもしつつ、
でも基本のリズムを崩さない。
いわゆる、ベースのリズム(枠組み)をちゃんと作ってから、
ソロ奏者はその枠組みの中で、あるいはそこからはみ出ようと、
自由に演奏するわけである。

その後、ビールを飲みながらたまたま人種とか社会とか宗教とかの話になって
cadre(枠組み)」という言葉が出てきた。
人はどこまで枠組みが必要なのか、という話。
もちろんなければないほど良い、という人と、
ある程度ないとダメだという人がいる。

そこで、なぜかふと、リリーフランキーの言ったことを思い出した。
「自由気ままな、なんの制約もない生活の中に本物の孤独なんて無い。
本物の孤独はありきたりな社会の中にある。
本物の不安は平凡な日常の片隅にある」

私的には、人間の身体それ自体がすでに精神の枠組みで、
人間の精神はその枠組みに宿りながらも
どこかで、そこからはみ出ようとしているのではないか、とも思う。
自由を求めているからである。
ただし、「はみ出る」ためにはそれを覆う「枠組み」が必要なわけで、
でもそこから「はみ出る」と、孤独になり、不安になってしまう。
それでは自由ではない。

では、本当の意味での自由とはなんなのか。

リリー・フランキーはこうも言っている
「ありきたりなことが真面目に行われているからこそ
人間のエネルギーはつくり出されるのだろう。」

どちらかというと、私はコレに大賛成である。
だいさんせい、というよりかハッと気づかされたのを覚えている。
ありきたりな自分の枠組みを、真面目に作るのである。
それからというものできる範囲で、
ありきたりなことを真面目にするようにはしているが
なにせ、慣れてないので、まだ初心者である。
それも、もっと自由になるために、、、である。

ジェンベからなぜかリリーフランキーへと飛んでしまったのが
なぜかよくわかりませんが。

とにかく今日のセッションの興奮と、その後の思わぬ強かったビールのせいで
早朝に目が覚めてしまって、
ダラダラとつづってしまいました。
オヤスミナサイ